曹  家 台湾 国花「梅」  


15/9/10.撮す。りんりん。
Sept’10.2003.
台湾の娘「りんりん」
彼女は台湾の大学終了後 名大大学院で修士となり、
日本語の語彙は凄い!し かなりの名古屋弁をこなし
日本語・英語の読み書き、同時通訳OKです。

台湾の国費留学生は当時の大会社の係長並みの学費を日本円で支給されてました。
大卒二年目の我が家のドボズが羨ましがってましたよ。
が、卒業後の三年間は台湾国内の企業勤務が義務づけられてました。

台湾自宅でジミー君と. 我が家でラム・レムちゃんと.
シアトルにて. 蘇州にて.

追悼
台湾パパは中華民国九十二年(2003)七月十八日朝05:37病院で亡くなりました。
中国本土から蒋介石総統と共に台湾へ来て台湾ママと結婚して二児(申君・凌君)を
設け軍を退いてからは書家・画家として何度も個展を開き良きパパでした。
我が家族にも慈愛に満ちた眼差しで、博愛の精神で優しく接してくれました。

案内状17kb. この封筒で送って貰いました。

表紙52kb. 見開き55kb.
左が表紙、右が見開き頁。
入り口で芳名録に名前を書いて香典を渡して黄色の花を付けて貰って指定の場所に座った

退役時は中将でした。
儀仗兵が献花・献香を手伝う.

あの忠烈祠の衛兵交代時のように一辺毎に右側の兵がカツーン・カツーンと香、花を渡して
献香・献花・三拝が済むと左側の兵が同じようにキビキビと元に戻して繰り返します。


右手からは中国箏曲が奏でられてました。
家族葬に続いて一般葬が執り行われた。

総統からの国旗を大臣から授与.

政府関係の偉い人達は一人づつ献香・献花をして、イートゥ、ツァイトゥ、サントゥと礼をしてアニキ、
リンリン.奥様に挨拶と握手をして席に戻り軍関係の方も同じようにして順番に一人から二人・三人十人
と人数が増えて代表が献香・献花をして挨拶をして、随分過ぎてから僕達夫婦の名前を呼ばれ僕が
代表で
献花して
イートゥ、ツァイトゥじゃ無くて一礼、二礼、三礼して三人に挨拶し席に戻りました。

軍楽隊が先導して


坊様に続いて納骨堂へと・・


この時、葬送曲が流れてました。
儀仗兵が持ってる額には総統からの国旗、党からの党旗の授与証が入ってる。
車が葬儀場から出る時には「蛍の光」が奏でられました。
この後 家族の手で 北海福座 に納骨されました。

*暑い国 台湾では服装は略式OK!半袖カッターシャツに黒ネクタイ・黒靴でOK!
      此方の 香典袋に あたる香典袋がヤハリ有りまして中身は奇数台湾元(例えば1,100元)
      と気持ち程度でOKだそうです。



Sept’.9.2003.
帰国前日にりんりん家族と食事時に 台湾パパの一番の愛弟子趙女史が、南画と書を
為書き入りで書いて戴きました。
*趙女史は中国と台湾で中国画の講師をされてます。

色紙 表.155kb
為書きの所はカクレンボ!

色紙 裏165kb
三国志の一文。

長辺が70cmも有って手荷物で機内持ち込みしましたが、折れちゃ大変だからって大事に持って帰りました。

前のページへ戻る!